香芝市下田・五位堂は、かつて鋳物産業が栄えた地として知られている。その歴史は古く、五位堂鋳物師は16世紀末から17世紀初頭に操業を始め、寺社の梵鐘(ぼんしょう)、燈籠(とうろう)、鰐口(わにぐち)、水盤(すいばん)などを主に製造した。現在確認される製品は239件で、梵鐘111件、半鐘(はんしょう)99件、燈籠・湯釜(ゆがま)・水盤等29件である。
中でも特筆すべきは梵鐘で、葛城・宇智・吉野・宇陀地域を中心に県内の古鐘(こしょう)のほとんどが五位堂鋳物師の製品とされている。
明治以降は、日用品の鍋釜や農具類が主力製品となり、戦時中は軍需品、戦後は工作機械部品や輸送機械の内燃機関部品などを製造しながら鋳物産業を受け継いできた。
五位堂鋳物師として名が残る小原・杉田・津田の三家のうち、現在は津田家のみが当地で操業を続けている。
下田・五位堂鋳物師の発祥は古く、かつて奈良の大仏造立の指揮を執った葛下郡の鋳物師・国中連公麻呂(くになかのむらじきみまろ)を遠祖とする説がある。葛下郡では、地理的に近い河内から鋳物師の移住があり、鋳物業の伝統が連綿と息づいていたと考えられる。
また、慶長19年(1614)、のち豊臣家滅亡の端緒となった「国家安康」銘で知られる京都方広寺大仏殿の梵鐘鋳造に津田五郎兵衛が脇棟梁の一人として参加し、その功績により「藤原求次周防少掾(すおうしょうじょう)」の呼名官位(こめいかんい)(口宣案(くせんあん))を賜った。それ以後、五位堂鋳物師の三家は、中央(朝廷)で全国の鋳物師を統括した真継家(まつぎけ)の庇護のもと、鋳物業を継承・発展させてきた。
五位堂鋳物師に関係する資料は、近世以降の文書類のほか、鋳物師が実際の製造作業に使用した生産用具、製品の鍋釜や農具類、さらに梵鐘鋳造の鋳型など数多く残されている。
このような鋳物産業に関わる資料が一括して保存されているケースは全国的にも稀で、産業遺産としての価値は非常に高い。
現在、二上山博物館において国又は県の文化財指定を目指して整理中である。